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IIJ.news Vol.193 April 2026

今回は、インターネットの黎明期からこの分野に携わっている筆者の体験を踏まえて、AI時代のインターネットのあり方に思いを馳せてみたい。

IIJ 非常勤顧問 株式会社パロンゴ監査役、その他ICT関連企業のアドバイザー等を兼務
浅羽 登志也
平日は主に企業経営支援、研修講師、執筆活動など。土日は米と野菜作り。
私たちは、インターネットを通じて情報を得るだけでなく、AIと対話し、判断や創造の一部を委ねることまでできるようになりました。今では当たり前になった「知能化したネットワーク」の姿は、ある日、突然現れたものではありません。
まずアメリカで発祥したインターネットの種が、世界のあちらこちらに飛散し、それぞれの場所で広がりながら、アメーバのように相互につながって、1つの大きなネットワークへと成長していくフェーズがありました。それと並行して、トラフィックの多いポイントに情報を蓄積・配信するためのサーバやキャッシュが置かれ、徐々にネットワークの中枢で情報蓄積と処理を担う構造が形作られていきました。そしてついには、インターネット全体を「大脳」のように覆う巨大なクラウドが形成され、あらゆる情報がそこに蓄積されるようになり、その結果として知的対話が可能な生成AIのようなシステムが出現したのです。
このインターネットの萌芽からAIの出現までの過程は、単細胞生物が多細胞生物へと進化し、やがて神経系を発達させ、それらを束ねる中枢神経系が形成され、その最上位に脳が生まれ、記憶や推論を統括するようになった過程に、ある抽象レベルで語るとよく似ているように思います。
では、その始まりはいつだったのでしょうか? ARPANETの話は時々聞きますが、その後、何がどうなって、今、日本にいる私たちが当たり前のようにインターネットにつながるようになったのかは、意外と知られていないかもしれません。今回はそんな話を少し語ってみたいと思います。
日本のインターネットの始まりは、1980年代終わり頃のJUNETやWIDEに遡ります。これは、アメリカから世界に飛び散ったインターネットの種が、日本で芽吹いた最初の段階に相当します。では、それらを相互につないだのは誰だったのでしょうか? 筆者がその渦中に身を置くことになったのは、まさにこの「相互につながる」フェーズが始まった頃でした。
1980年代末から90年代初めにかけて、日本のインターネットは、誰かが用意してくれたサービスに「つながった」わけではありません。研究者や技術者、そしてごく一部の企業人たちが、自分たちの周囲に作った小さなネットワークを、自分たちで交渉し、回線を確保し、ルータを設定し、「つなぎに行った」結果として形作られていったのです。当時、日本国内のネットワークはまだ閉じており、海外とはUUCPによるメールやネットニュースの交換が主でした。そして、太平洋の向こう側とどう結びつくかが、次の最大の課題だったのです。
その1つの解が、PACCOM(Pacific Communications Network)でした。ハワイ大学がハブとなって、アメリカ本土と日本、韓国、香港、台湾、オーストラリア、ニュージーランドをつないでいたこのネットワークは、国家プロジェクトでも商用サービスでもありませんでした。「国をつなぐ」というより、各地の研究ネットワークプロジェクトの関係者が研究費や設備を持ち寄り、「必要だからつなぐ」という極めて素朴な動機によって成立していたのです。どこにも明確な中枢を持たない、ニューロン同士の緩やかな結合体のような初期インターネットの姿を、PACCOMはよく体現していました。
筆者は当時、リクルートの研究部門に所属し、PACCOMに参加していました。企業に籍を置きながら、大学や海外の研究者と同じ土俵でネットワークを議論し、運用に関わる。研究と事業、公共と民間の境界がまだ硬直化していなかった時代だったと、今、振り返って感じます。
1992年夏、神戸で開催されたISOCの国際会議INETʼ92は、そうした時代が次の段階へ進むことを象徴する出来事でした。この会議で筆者は、日本からPACCOM経由で海外とどのような通信が行なわれているのかを分析し、その実態と課題をまとめた論文を発表しました。特に印象的だったのは、日本は情報を受け取るばかりだと思われがちだった当時、実際には日本から海外へ相当量の情報が発信されていたことが明らかになったのです。インターネットの本質が双方向性にあることを、データとして示せたことは大きな経験でした。
やがてインターネットは、こうした自発的な接続の時代から、制度化・商用化の段階へと進みます。1991年にUS Sprint社がNSFNETのInternational Connections Manager(ICM)を担ったことは、その象徴的な出来事でした。神経系に喩えるなら、分散したニューロンの集合体だったネットワークに中枢神経系が形成され始めた瞬間、と言えるでしょう。
筆者がIIJに関わることになった背景には、PACCOMに代表される分散的かつ共同体的なネットワークの経験と、ICM以降に見えてきた制度化・商用化という2つの流れがありました。インターネットは公共的な基盤であると同時に、誰かに依存しない独立した事業としても成立し得る。その2つをどう両立させるか? という問いが、IIJの設計思想の根底にあったように思います。
その後、全米各地にIXが形成され、インターネットはより分散的で冗長な構造へと進化していきました。さらにクラウドの時代が到来し、計算資源とデータが巨大なデータセンターに集約され、「大脳」のような役割を果たすようになったのは前述の通りです。今日、私たちが体験しているAIとの対話は、この長い進化の延長線上にあります。
しかし、人間の脳が単なる中央集権的な装置ではないように、インターネットの知能もまた、分散したネットワークとの相互作用のなかで育まれてきました。PACCOMの時代にあった「自分たちでつなぐ」「必要だから道を作る」という感覚は、クラウドとAIの時代においても、なお重要な示唆を与えてくれます。
日本のインターネットの黎明期は、単なる技術史ではありません。それは、分散したつながりがどのように集約され、やがて知能として立ち上がっていくのかを示した、1つのモデルでもあったと思います。筆者の体験はその一部に過ぎませんが、ネットワークと人間の“知”が重なり合う現場に立ち会えたことは、これからのAI時代を考えるうえで、確かな足場になっています。
インターネットは、通信網から社会の神経系へ、そして知能へと進化し続けています。その行方を決めるのは、技術そのものではなく、どのようなつながり方を選び、どこに“知”を委ねるのかという、私たち自身の“意思”なのだと確信しています。
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